Voice たばこ屋
以下の文章は、2008.10.27のトラベルジャーナル誌に掲載されたものを加筆訂正したものです。読まれた方もいらっしゃるでしょうが、自分でいうのもおこがましいですが私の原点です。よろしかったら再度お読みください。


私の生家は、南信州の飯田市で菓子屋を営んでいます。6歳上の兄が後を継ぎ3代目となっています。昔の屋号は「たばこ屋」。伊賀良村(後に飯田市と合併)では数少ない煙草を扱う店だったのでこう呼ばれたそうです。後に煙草販売の権利を手放してしまい、祖父はそのことを大変悔やんでいました。「あんな楽な商売はない。ただ並べておけば売れる。餅や饅頭は苦労してつくって売り歩かにゃならん」と。 

私が子供のころは、祖父母と両親といった典型的な家族労働で、朝早く起きては餅や饅頭を自家製造し、店売りと卸しの両方をしていました。小学校低学年ごろまでは、親父のオートバイの燃料タンクに跨いで乗り配達についていくのが大好きでした。随分、山奥の店でも、何時間もかけて配達に行きました。

どんなに手間暇かけても、自家製造の餅と饅頭が売れれば儲かったのだと思います。ただ、返品が多いときは親父の顔も暗くなり、口数も少なくなりました。「棚貸し」といって、その店に品物を置かせてもらい売れた分だけお金をもらう委託販売だと、売れ残ればそれを引き取らなければなりません。そんな商売の仕組みは、当時の私には解るはずもありませんが、「売れずに返された」という事実がどんなことを意味するかは、なんとなく想像できました。 

「団子屋くらい儲かる商売はない」と親父はよく言っていました。「メリケン粉をこねて砂糖を少し入れて団子にして売る。10円の物が100円で売れる」。自家製造のもち饅頭もそれと同じくらい利益率が高い商売です。しかし、利益率が高くても、売上高はたかだか知れています。たばこ屋の饅頭は、ごく狭い限られた商圏でしか売れないのです。 

一方、たばこやの店には、「置き菓子」といって問屋が持ってくる煎餅や飴、チョコレート、ガムなどが並んでいました。こうした置き菓子の利益はせいぜい2割程度。私が中学生になるころには、親父が1日の売り上げが1万円を超えると機嫌がよかったのを覚えています。置き菓子は売り上げにはかなり貢献したと思います。 商売をしていると、売り上げが伸びていけば単純に嬉しいものです。私が推測するに、当時の親父もそうだったのでしょう。まして、当時はインフレですからその魅力は想像以上。

しかし、置き菓子の魔力は、店に並べてある商品をメーカーがテレビなどで宣伝してくれれば何の苦労もなく売れることにあります。まさに煙草と同じです。当時は本格的なテレビ時代を迎え、どんどん置き菓子の売上が伸びていたはずです。もし、親父がその魔力に取り付かれ、自分の技を捨て自家製造を止めていたら、今頃は兄も商売を継ぐこともなかったと思います。親父も職人でした。職人が肌で感じる実感が、何が大切かを嗅ぎ分けたのだと思います。 

昔はどこの家庭も、正月には自分の家で餅をついていましたが、1960年代にはもち米を菓子屋に持ち込んで手間賃を払い、ついてもらう家が増えていました。しかし、親父は「手間賃仕事はもうからん」といっていました。そのうちに、もち米を含めてもちを頼んでくる家が増えてきました。こうなると利益も結構大きかったのか、「みんなお任せならありがたい」と喜んでいました。手間賃仕事は利益が裸にされ、たいした手間賃はもらえません。そのうえ、美味しい餅をつくには良いもち米が欠かせませんが、もち米をお客様が持ち込んで来ると、どんなに美味しい餅ができても、店の腕とは評価されません。ところが、もち米を自分で仕入れて餅をつき完成品を売るならば、良質なもち米を安く仕入れ、何とか美味しい餅をつこうという工夫が生まれます。その結果、「たばこ屋のもちはうまい」という評判を得ることも可能になるのです。

旅行業には、いろいろな業種があり、そのやり方も様々です。私は、メーカーのようにパーツに拘りながら自分達でツアーをつくって直接お客様に販売する道を選びました。市場は狭く販売量は限られているかもしれませんが、特定の顧客を得てきました。まさに、たばこ屋の餅と饅頭であり、正月の餅です。原点は、たばこ屋の祖父母、両親の姿にあったように思います。

著者:原 優二(株式会社 風の旅行社)

掲載日:2022年06月23日