Voice 「旅」が築いた日本の夜明け
さてさて、今回はコロナ禍で公私に渡りフラストレーションが溜まっていらっしゃる皆様に、本日は講談調で旅の持つ力と素晴らしさを150年前の幕末期の一節として、お伝えしたいと思います。
文中の(パンパン)は講釈師の張扇の音でございます、あしからず!

時は幕末、世の中やれ開国だ攘夷だのと大いに揺れ動いていた時代であります。(パンパン)
そんな時代に今の日本の国づくりの楚を成した旅をした御仁の一節であります。
その御仁とは、もう皆様、新一万円札やら大河ドラマでご承知の埼玉は深谷生まれの
渋沢栄一先生であります。(パンパン)
わたくし講釈師は埼玉育ちでありますが、恥ずかしながら深谷と言えば葱(まるまる一本を炭火で焼いてちょいと醤油なんぞを垂らして食すがこれまた甘くて美味)と、その昔、某運輸大臣が地元深谷駅を鶴の一声で国鉄高崎線(懐かしい響きですなぁ)急行列車の停車駅と決めてしまった事ぐらいしか記憶にございやせんでした。(渋沢先生申し訳ありやせん、パンパン)

この渋沢さん、深谷の在の農家出ながら、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜の幕臣として開国を迫る欧米諸国の圧力や尊王攘夷の渦に挟まれて正に四苦八苦の奮闘、この辺の流れは皆様大河ドラマ等でご承知の通りでございます。(パンパン)
そんな流れの世の中、欧米の列国は徳川幕府に軍備アドバイスやら開国のアプローチ等、要はジパングを商売の美味しいネタと狙っておりました、徳川幕府はまだ安泰とフランス本国に報告しておりましたロッシ在日公使の外交戦略もありまして、フランス皇帝ナポレオン三世から徳川将軍を1867年開催のパリ万国博覧会に招待するとの申し出がやって参りました。

さあ大変、下手に断ろうもんならフランス海軍の蒸気船から江戸城下に大砲をぶち込まれるや知れず!そこは幕末日本外交の急場しのぎの得意技、なんとか相手を怒らせず、且つ国内への道理付けをする形で急遽将軍慶喜の弟徳川昭武を名代として派遣する事と致しました。
急ぎ弟昭武を担ぎ上げたまでは良かったが、将軍さん随員選びが大変ですよ!
随員の誰もが知らない夷人の国へ、丁髷帯刀、武士が命の水戸藩士、行って来いと言われても?てな状態でありました。(パンパン)
そんな随員達に頭を抱えていた慶喜さん、ふと考えると家臣の1人に物怖じしない、はっきりと物言う渋沢栄一なる者がおるではないか!これだとばかりに「御勘定格陸軍付調役」と言う大層な肩書を付け(平たく言えば庶務・会計係)渋沢さんをツアーコンダクターとして随員に加えたのでありました。(パンパン)

そうと決まればいざパリ万国博覧会へ、時は1867年(慶応三年)2月15日徳川昭武をツアーリーダーとした一行29名はエールフランスのエアバス380ならぬフランス船アルフェイ号にて上海から香港、香港トランジットで南回りマルセイユ経由パリ行き約2ヶ月の道中に出発しました。
考えてみれば大変な騒ぎであったでしょうなぁ、今ならば有人火星探査にでも行くようなものですよ。生きて帰れる保証なし、命にかけて13歳の団長徳川昭武公をお護り通さねばならぬし、言葉も判らず、日本人の現地ガイドさんも居ないし、地球の歩き方も翻訳アプリもある訳ないし。。。。
渋沢さんの洋行から150年以上経た今日では考えられない事でしょうが、実は昭和の時代でさえ洋行となれば羽田空港に会社の上司、同僚、後輩が見送りに大勢集まり万歳と花束の嵐。家族での海外赴任となろうものならば、会社関係、親戚家族、近所のおじさんおばさん、先生クラスメイトまで見送りに出向いたものであります。搭乗はタラップで見送りはハンガーデッキでお互い見えなくなるまで手を振っているのでありました。(嗚呼、何と心に深みを感じる時代であったのでしょう!失礼これは講釈師の歳の故ですなぁ)

渋沢さんご一行に話を戻しましょう、横浜出港直後から先ず直面した問題は、旅では大切な食事でありました。
今日の様にCAのお嬢さんがお食事は和食にしますか?洋食にしますか?軽い夜食におにぎり、うどん、カレーライス等もございますと聞いてくれるなんてな訳にはまいりません。団長の徳川昭武さん水戸のご出身、「余はもちろん朝は納豆じゃ、白いご飯に豆腐と若布の味噌汁、がんもどきの煮物、香の物等軽いものが所望じゃ」と言われてもキッチンギャレーは洋食オンリーの直球勝負。
丁髷メンバー食事には落胆と疲労を一人を除き苦しんでいた様であります。
誰じゃその一人とは?
それは深谷の在出身の渋沢さんだったのであります。(パンパン)

渋沢さん、朝食に焼きたてのフランスパンにバターを塗り食べる事をいたく気に入られた様子「牛の乳の凝りたるをパンなる物に塗りて食せしむ、味甚だ美なり」またフランス朝食にお約束のカフェオレも「豆を煎じたる湯を砂糖牛乳をおわしてこれを飲む、すこぶる胸中爽やかにする」と表し、自らの新たな食の発見に感激しております。

「フォションのバゲットにエシレのバターをつけて、たっぷりのカフェオレ、こりゃたまらん朝飯だ、これぞフランス!」と感じたそこのアナタ! そうです、アナタと同じ感動を150年以上も前に受けた日本人がいたのですよ。(フォションは1886年、エシレは1894年創業ですからこの時渋沢さんが食したのは別銘柄かも知れんですな) 何と楽しく、嬉しさを感じてしまう事でしょう!途中寄港したインドではマンゴを食し、「大きな枇杷に似たるマンゴーなる果実、甘味美味たり追食を抑える事甚だ苦なり」とも表し(この表現良〜く分かりますよ)、食の多方面で感銘を受けておりました。マルセイユに着く頃にはワインはメドックに限ると仰っていたご様子とか?(誰ですか? 講釈師見てきた様な嘘を言い なんて言っているのは!)
渋沢さんの旅食チャレンジは、何事にも向かう積極性とその結果を素直に受け容れる渋沢さんの隠れた素養が開花した一面だったのでしょう。(パンパン)

さてさてツアコン渋沢さん御一行は56日間に及ぶ珍道中を経て、漸く華の都パリに着く訳ですが、道中色々と聞いてはいたものの、フランスの文化力に完全に圧倒されます。ホテルは当時ヨーロッパ随一と言われたパリグランドホテル、今迄は幕臣と言えども宿泊は陣屋程度の経験しかありません。絢爛豪華である事は勿論そのインフラの素晴らしさに丁髷から雪駄の先までエレキテルに撃たれた様でありました。(パンパン)

さあさあ、ここからが大変ですよ渋沢さん!フランス皇帝ナポレオン三世に謁見し、文化力の虜となった渋沢さん、幕臣にもかかわらず何を思ったのか、武士の魂である丁髷をバッサリとパリの床屋で断髪、その足で洋服屋に飛び込み羽織袴を脱ぎ捨て、更に腰の刀まで放り出し、シルクハットから三揃いのスーツ、シャツ、タイ、靴、更にステッキに至るまで取り揃え、一気に大変身を図ったのでありました。やったね〜渋沢 行動力ポイントアップ!気持わかるなぁ、郷に居ては郷に従うチャレンジ、成り切らなければ世の中の物は見えてこないですなぁ。
実はこの大変身、舞台裏には渋沢さんのヨーロッパ文化力調査への強い意向があったのです。 鉄道、道路、ガス、エレキテル、上下水道、医療等インフラを見て回るにあたり、丁髷・帯刀・羽織袴・雪駄姿では仕事にならず、 てな訳での大変身でありました。

講釈師の知合いの女性に海外旅行には着物で行き、現地でその国の衣装を探して日本の着物と共に楽しむと言う方がいらっしゃいます。インドではサリーを、ベトナムではアオザイを、中国ではチャイナドレスと楽しそうに着まくっておりました、不思議な事にこれがまたよく似合っておるのです。旅の楽しみ方の一つですね、これも150年も前に渋沢さんが示してくれた事なのかも知れませんね。(パンパン)


更に渋沢さんの大変身の目的として、旅行者が異文化に溶け込む事の快感を得ることがあったのではないかと思っております。渋沢さんの俗に言う「西洋かぶれ」かも知れませんが、渋沢さんはかぶれることにより日本人の意識では見えないもの、理解できないものが解って来ると気付いたのです。(パンパン)

商社マン(もう古語でしょうが)の世界では新任駐在員はベテラン駐在員から「もう現地の人から道を聞かれる様になったか?」とチェックが入ったそうです。これは正に商社マンとして現地に溶け込めているかのリトマス試験紙なのです。一日でも早く「ジモティ」に成らなければその国に溶け込めず、いつまでも異文化の日本人としか見てくれない。そうなると相手はお前さんの言う事に耳を貸さないぞ!この一言、苦労と経験を重ねた世界を結ぶ真の商社マンの教えですね。
渋沢ツアコンさんの話しに戻りますが、大変身後渋沢さんの行動力は益々拍車がかかり、フランスは勿論、欧州各国を廻り国力としての商売、貿易、それを支える金融の大切さを直に感じ取った様であります。
大政奉還後の日本を世界と近づけ、異文化間の理解を促進した渋沢さんの業績は素晴らしいですが、講釈師は渋沢さんの成し得た業績は、「旅」が彼に与えた試練と体験の賜物であり、旅の経験が常に渋沢さんを鼓舞していたと思っております。
渋沢さんのパリ万博訪問ツアーがなかりせば、渋沢さんは日本経済の基盤を築く御仁にはなれなかった、いや急行列車すら深谷駅に停められなかったかも知れません。(パンパン)

世界中がコロナ禍に苦しむ今であるからこそ、日本人として人への理解、各国文化の相互理解、他国とのコミュニケーションを執り国際人として成長して行かねば成りません。
「旅」というものは、これらの点全ての原点である「観る事」を築く大切な力です。
世界の人々が理解し合う為に日本人が国際人として果す役割を醸成する「旅」の一日も早い再開を切に願うばかりです。

深谷出身の渋沢さんが世界を観るきっかけとなり、文化力に感銘を受け、理解する事の大切さを教えた「旅」の一節、お付き合い頂きありがとうございました。

著者:大曽根 恒(テック航空サービス株式会社)

掲載日:2021年05月12日