今年の夏、久しぶりに訪れたシンガポールは、南国特有の湿気を含んだ風が海からゆっくりと吹き抜けていた。
セントーサ島の丘を登る途中、木々の隙間から見えたオレンジ色の屋根が、旅人の心をそっとときめかせる。
そこが「カペラ・シンガポール」。
あの米朝首脳会談が行われた、世界の注目を集めた場所だ。
歴史の舞台に足を踏み入れるという緊張と、旅人としての高揚感が交じり合いながら、静かな期待に包まれていた。
敷地に入ると、想像していた“格式”よりも、むしろ“柔らかな静けさ”が出迎えてくれた。
歴史を誇るよりも、静寂を慈しむような空気。
その落ち着いた世界に、心がすぐに解けていくのを感じた。
宿泊したのは、緑に囲まれたビラタイプの部屋。
木々のざわめきと鳥の声に包まれ、窓の向こうには光を映すプライベートプール。
室内は洗練されていながらも、どこか温もりがあり、インテリアの一つひとつに“静けさを整える意志”を感じた。
外の世界から切り離されたような穏やかさの中で、時間は驚くほどゆっくりと流れていった。
ただソファに腰を下ろし、南国の風を感じながら何も考えずに過ごす──その時間の豊かさこそ、旅の本質なのかもしれないと思った。
翌日、ホテルのスタッフに案内されて向かったのは、米朝首脳会談の会場となった「リビングルーム・ラウンジ」。
クラシカルな木の柱と優雅なアーチが並び、柔らかな照明が空間を包む。
あの日、世界の視線がここに注がれていたことを思うと、胸の奥が静かに高鳴った。
ラウンジを抜け、メインビルディング中央にあるガーデン広場へ出ると、出入り口に記念PLAQUEが設置されていた。
金属の光沢が午後の陽射しを柔らかく受け止め、刻まれた文字が静かに輝いている。
その前に立った瞬間、時の重みと人の営みが交差する感覚に包まれた。
歴史とは、記録ではなく、こうして“場所が語るもの”なのだと実感した。
滞在中、ひとりのスタッフとの出会いが忘れられない。
プールサイドで本を読んでいると、彼がそっと近づき、冷たいミストタオルを差し出した。
「暑さが続きますので」と控えめな笑みを浮かべる。
そのわずかな間に、言葉以上の優しさがあった。
夜、再びすれ違ったときには、「明日の朝は少し雨になりそうです。ラウンジ側の席が心地よいですよ」と教えてくれた。
その自然な気遣いに、カペラのホスピタリティの真髄を感じた。
“察する”という美しさは、国や文化を越えて伝わるものなのだと思う。
夜、ビラのテラスから庭園を見下ろすと、灯りの粒が風に揺れていた。
かつて歴史的な会談が行われたこの地で、今は旅人たちが穏やかに語らい、笑い合っている。
特別であることを誇示せず、静けさの中で輝く。それがカペラという場所の品格なのだと思う。
ホスピタリティとは、派手な演出ではなく、心の深呼吸を導く空気のようなもの。
そして、その空気を形づくっているのは、そこで働く人々の“思いやりの記憶”だ。
帰国してからも、あのPLAQUEの前で感じた静かな感動が、時おり心の奥に蘇る。
お客様と向き合うとき、自分はどれだけ相手の時間に寄り添えているだろう。
旅とは、非日常に触れることではなく、日常をより深く感じるための時間なのかもしれない。
今年の夏、カペラ・シンガポールで過ごした数日間は、そんな気づきを与えてくれた、忘れがたい“静けさの旅”だった。
著者:平尾 慎悟(ザ リーディングホテルズ オブ ザ ワールド)
掲載日:2025年10月17日