1984年に近畿日本ツーリスト㈱に入社以来、多くの海外都市・国内都市を訪れましたが、私にとって最もインパクトがあった都市は2回訪れた緊張感溢れる平壌(ピョンヤン)でした。
(ピョンチャンではありません。ピョンチャンにも行きましたが)
いずれも観光目的ではなく日本国の外交に関わる訪問団でした。
【1回目】1995年(平成9年) 〈団長:森喜朗元内閣総理大臣〉
【2回目】1997年(平成11年) 〈団長:村山富市元内閣総理大臣〉
本日は2回目の「村山訪朝団」についてほんのさわりですがご紹介させていただきます。(詳しくは書けない)
2002年に小泉政権下において北朝鮮拉致被害者のうち5名が日本帰国を果たしました。
このことに先立ち、当時の各政党は拉致被害者の日本帰国を実現させることに力を尽くしていました。
当時私は公務営業を担当しており自由民主党を中心に永田町界隈を動き回っておりましたが、気がつけば出発準備に入っていました。
日程:1997年(平成11年)12月1日(水)~3日(金) 3日間
《金正日(キム・ジョンイル)総書記時代》
団員:41名(自由民主党、民主党、公明党、自由党、日本共産党、
社会民主党、改革クラブ、外務省、郵政省)
同行記者:24名(各テレビ局、各新聞社) 随行:20名 計85名
フライト(全日空チャーター機):
12月1日(水) 羽田11:00 ➡ ANA1961 ➡ 平壌13:50
12月3日(金) 平壌14:00 ➡ ANA1962 ➡ 羽田16:40
宿舎:団員は招待所というゲストハウス(小泉訪朝団で小泉元総理と金正日元総書記が面会した場所/政党ごとに各招待所が割り振られる。同行記者及びKNT・ANAは平壌高麗ホテル
日程については詳述できませんが、以下、事象を記すこととします。
① 入国後、真っ先に「万寿台大記念碑」に建つ金日成(キム・イルソン)閣下の銅像に拝礼した後、「錦繍山太陽宮殿」にてホルマリン漬けされているご遺体と面会(至近3mほど)
② 北朝鮮入国審査申請は飯田橋にある「朝鮮総連」を通じて行う。パスポートには出入国の記録は残らない。
③ 現地の人に普通に朝鮮語で話しかけられたので朝鮮語で返答した。
④ 自由行動は厳禁(グループごとに朝鮮労働党の監視員がつく)
⑤ ホテル客室内は盗撮されている場合があるらしい。
⑥ 客室から日本へ電話をかけたが、郵政省・KDD同行のお陰か意外と普通に繋がった。
料金は2分で3万円と高額であった。
電話は盗聴されているらしい。
⑦ この時期(12月)の気温は最高0℃/最低-10℃
⑧ 当時の通貨レートは1ウォン=60円。日本円現金は使用可。
⑨ 日本との国交がないので当然大使館はない。団員、同行記者から北朝鮮の専門家でない私に問い合わせや質問が殺到した。
⑩ 携帯電話は持ち込めない。入国時に預け出国時に返却される。その間のデータ管理の保証はない。
⑪ 平壌冷麺を食したが盛岡冷麺の方がはるかに旨い
⑫ 和食レストランがあった。(メニューはカレーライス、うどん、そば、巻きずし、天ぷらなど) 焼肉レストランは旨かった。
⑬ カラオケラウンジがあった(都はるみの「北の宿から」が最新曲)
⑭ 帰国後4月15日、朝鮮総連主催の金日成(キム・イルソン)閣下の誕生日を祝う会に招かれ参加
全拉致被害者の早期帰国を心より願っております。
著者:髙浦 雅彦(近畿日本ツーリスト健康保険組合)
掲載日:2025年06月27日