Voice カンファタブル・ツーリズム
とにかく外国人旅行者が多い。
20代の頃から、毎年何回か決まった時期に京都で休暇を過ごしている。通算で三桁を下ることはない訪れだ。時の流れとともに、定点観測の如きに京都を旅人目線で見続けてきたことになる。今年の花見の時期は外国人が嫌になるほどに多かった。四条通を歩いていると日本語よりも多国籍の言葉が騒音の如きに行き交っていた。多種多様。これはどこの国の言葉だろう?とにかく街が騒々しい。バーなどに入っても、二人での会話なのに、10人にでも話すように大きな声で会話している。バスには長蛇の列ができ、繁華街では流しのタクシーを捕まえるにも、どこかのテレビCMのように前に出て前に出て我先に捕まえようとする。行きつけだった食事処もSNSで情報を得た外国人客が増え、予約が取れない状態。宿泊価格も高騰のトレンドは収まる気配もなく、それでも予約を確保するのに相当の努力と忍耐と妥協が必要だ。ため息が出る。

これだけの人たちが世界から集まってきているのは、京都の文化に対するリスペクトが源であろう。日本には文化力がある。京都の街の喧騒の中にあって、文化力は国力だと実感する。ツーリズム産業の経済そして国際相互理解への貢献に大いなる意義を認識する。

しかしだ。ツーリズム産業に居ながらにして、この多さには辟易してしまう。カンファタブルでない。嫌になってしまう。文化への接点を求めに来ている旅行者達によって、日本の文化が侵されているという被害者意識が芽生えてくるのだ。そんな狭量の心の自分に気付き、これもカンファタブルでない。

冒頭に、外国人の旅行者が嫌になる程に多いと記した。己も旅人であるのだが、旅行者の存在が煩わしい。数十年にわたって、年数回訪れているのは、私にとってそれなりに理由があるのだろう。京都の持つ空気の心地良い特別さ、京都人の日本人こそが持つ品の良さが垣間見られ、伝統を重んじようとする気風、文化を懐に持つ京都人の粋、思わず歴史を振り返させる時間の多発、没頭させる文化の深さと我が不学を確認させるその厚さ、極めた日本の食、挙げれば暇がないが、京都には日本人として嬉しくなる多層な世界がある。

その世界が、物理的な圧迫感と共に押し寄せる異文化に形成された大波に呑み込まれる勢いを感じてしまうのだ。カンファタブルでないのだ。もう京都はいいかなと思ってしまう瞬間がある。

旅ナカ情報の拡散がインターネットで容易となり、記載された場所や体験に目掛けて旅行者が殺到する。もう有名観光地のみではない。バスなど、以前は外国人にとって利用が難しかったが、最近は懇切丁寧なノウハウサイトがあって、多くのバス停にはいつも長蛇の列ができ、住民が利用できない状態をも産んでいる。地元住民は口をあんぐりと開け、うんざりの状態だ。そして街中が騒々しい。生活する者にとってもカンファタブルではない。

某門跡寺院の池泉庭園で静けさに身を委ねて時の流れに対峙していると、庭の真ん中で中国人のガイドさんがグループに向かって声高に解説を始めた。項垂れざるを得ない。

和食は奥が深い。名前が知られた割烹では一見の外人客が来ると、空席があるにも関わらず「今日はFully booked! 予約で一杯です」と断る。『赤身と中トロの違いがわからん人に、苦労して仕入れたもんを食べてもらわんでもいい。』という。一つ一つの料理に質問が来て、それをアプリを使いながら違う言語で説明していたが、気疲れと厄介な気分が起き出してお断りが原則になったという。
多額のお金を消費して経済に貢献してくれる旅行者と分かりつつも、日本の誇るところの稀有な施設やサービス提供者にとってもカンファタブルではないのだ。

しかし、振り返ると私たちも海外旅行市場の最盛期には、思慮もなく世界中でこんな振る舞いをしていたに違いないと、今になって冷や汗ものだ。

旅行者自身もカンファタブルでない。サービス提供者もカンファタブルでない、住民もカンファタブルでない。街の文化や特有のライフスタイルが失われる危うさがカンファタブルではない。デスティネーションとしての衰退を生む。
オーバーツーリズムと定義して数の制御の考え方を掘り下げるだけではなく、旅行者自身、ツーリズムに関わる人々、産業や地域の間にカンファタブルな釣り合いが求められている。数の基準から心地よさを追求する基準に変えねばならない、と好きな京都で実感して帰路に着いた。

カンファタブルでない者同士を繋ぐツーリズム産業も、負の連鎖を繋ぐようで心持ちがカンファタブルではない。オーバーツーリズムの解決策を数の視点や分散に直ぐに走るのではなく、それぞれが感じるカンファタブルを尺度としてバランスを創造していく考え方を拡幅できないだろうか?

数のマネージメントに基づいては、旅行者は文化を求める六感の持ち主たる人ではなく、モノの存在に化してしまう。「感動を生む」など程遠い話だ。関わる人が一体化し、お互いに心地良くさせようという心持ちの普及にしか解決する道筋はないように思われる。

旅の恥はかき捨てなどとはとんでもない話だ。他人を思い遣って、己も思い遣られる心地よさを享受する。

旅人、ツーリズム産業の内側への働きかけ、カンファタブル・ツーリズムとでも呼ぼうか。旅人文化を醸成していくのも私たち産業の使命ではないだろうか?

著者:榊原 史博(株式会社マイルポスト)

掲載日:2025年04月15日