Voice カトマンズ今昔
<昔>
最初のネパール訪問はおよそ45年前だった。カトマンズ(トリブバン)国際空港は離着陸が難しいことで知られていた。高い山々に囲まれているからだ。レーダーシステムがなく、着陸は目視に頼ってきた。空港ビルも貧相な建物でイミグレから通関まで、電灯が灯っているのかいないのか、うすぐらい陰湿な場所だった。空港職員は私服で、自称ポーターがまとわりつく。だれが信用できる人物なのかまるで見当もつかないうちに人の流れに乗って外に出ると信頼できるランドオペレーターがサインボードを持って出迎えてくれた。

<今>
 カトマンズ国際空港では1992年7月と9月に立て続けに国際便の悲惨な事故(着陸失敗)が起きている。目視と無線連絡に頼る着陸には限界があり、大きな問題となった。ネパール政府の要請で日本の政府開発援助(ODA)として1995年から1997年にかけてレーダー施設の設置がなされた。空港ビル建屋もこのころから建て替えと修復が進み、荷物受取スペースではベルトコンベアが動いている。出入国管理官は制服を着こなし、電灯も明るくなっている。空港ビルの出口では多くの人が待ち人を探している。日本からのチャーター便運航では音楽隊が出迎えてくれた。

<昔>
ボロとはいえないまでも床から道路が見えそうなバスで排ガスをまきちらしながら市内のホテルへ向かう。当時のアルパインツアーサービスの定宿は目抜き通りの外装がくすんだ黄色の「イエローパゴダ・ホテル」。トレッキング参加者へは、寝るときは必ずヘッドランプを手元に置くようにお願いする。全部屋にはローソクと燭台が置いてある。蛇口の水は飲んではダメ、外歩きで買い食いもダメ、道路にはイヌや牛のウンチがあるから注意してね、と念を押す。

<今>
 かつては渋滞もなかった空港からの道はダウンタウンに近づくほど動かなくなる。交通信号機があってもなくても、警察官の手信号は信頼性抜群だ。制服のお巡りさんはスリムでカッコがいい。多くのホテルに世話になってきたが、1998年に中心街から少し離れた場所で開業したラディソンが定宿だ。停電は相変わらずだが自家発電ですぐに復旧する。2015年4月の大地震の被害は甚大で、世界遺産の寺院など復旧困難な状況でもある。地震の前から町の道路はガタガタだが、ウンチは少なくなったように思う。でも油断は禁物。

<昔>
トレッキングで山へ入ってしまえば、今も昔も快適なキャンプ生活が始まる。「サーブ・モーニングティー(だんな、朝のお茶です)」から一日がはじまる。ヒマラヤの山岳展望を楽しみながらのランチだって、箱弁当ではなく、石油バーナーで茶をわかし、パンケーキやうどんや、やきそば、巻きずしなども出てくる。高所トレッキングでは高山病で辛い思いをした人たちもたくさんおられる。でもシェルパ(ガイド役)をはじめ、キッチンスタッフたちの献身的働きに感謝しない人はいない。トレッキングは地産地消でポーターは地元民、ディナーのチキンや野菜もその日の仕入れだ。現金収入の機会に恵まれない山の民にとってトレッキンググループは歓迎されてきた。

<今>
 コロナ禍以降大人数のトレッキンググループは減少している。少人数での個人手配が増えているようだ。老舗のトレッキング業者(シェルパの元締め、テント、食料、装具などのアウトフィッター業)もそろそろ潮時なのか、事業継続していない会社も散見する。しかし、ネパールのトレッキング会社はポテンシャルが大きい。世界の屋根グレート・ヒマラヤを自国に有していることは大きな財産だ。山の中にも瀟洒なロッジが建てられ、欧米人がくつろいでいる。ポカラのサランコットの丘にはホテル・アンナプルナビュー(ワールド航空サービス所有)がある。このホテルの建設まで脇役で関与したが、開業までの難産はこれからの繁栄の礎だったのだと最近気づいたのである。

著者:黒川 恵(シニア会員)

掲載日:2025年03月18日