Voice 自分自身の棚卸
早いもので私ももう60歳、これを機会に自分の旅行業人生を振り返ってみたいと思う。とはいえ某紙の「私の履歴書」と銘打つほど何かを成し遂げたこともないので、もっと軽く「棚卸」として書き連ねてみた。ドラマチックでもなんでもないのはお許しを。

思えば小学生の頃は地図帳を見るのが好きで、自転車で遠出するのが好きな子供だった。なおかつ海外への漠然とした憧れがあったのだろう、卒業文集で「将来は外交官になりたい」と書いた記憶がある。その頃は海外に行ける=外交官、という知識しかなかったからだろう。
中学生で習う英語も性に合ったのか語学嫌いにもならなかった。とはいえ当時の「大学入学までは受験勉強」の流れで海外への夢や憧れを具体的な行動につなげることも無く淡々と過ごした日々は何だったのだろうか。

その夢を忘れかけていた大学時代、バイト先の先輩から「ワーホリ」なる言葉を聞き、眠っていた野望(と言えるほどでもない)が突如として沸き起こってくる。そーなると大変だ。「お金がたいして無くても行ける」「働きながら1年暮らせる」なんて甘い囁きが脳内リフレインすると居ても立ってもいられない。結局大学を飛び出し(早い話が中退)、1987年12月15日にシンガポール経由でオーストラリア・シドニーへ旅立った。もちろん初海外、我ながらよく行動したと褒めてあげたい。

当時のオーストラリアは海外ハネムーン先として大人気、日本人というだけでガイドの仕事にありつけた。これが私の旅行業人生の始まりだ。その後、ランドオペレーターで就労ビザを取ってもらい、オペレーション、カスタマーサービス(早い話が添乗員の御用聞き)、ホテル仕入れ、プロダクト開発と色々な業務に携わることが出来たことは幸運だったと思う。一般的な観光ツアーだけでなく視察ツアーや教育旅行、そして某百貨店の現地店オープニングなど様々なことに取り組ませてもらった。たくさんの失敗もしたが20代半ばの若者に責任ある仕事を任してくれる大らかな業界が楽しく、「これを一生の仕事として生きていこう」と決意した。かの地で妻と出会い結婚したもの大きかったのは言うまでもない。

とはいえオーストラリアの永住権取得はそう簡単ではなかった。1990年代初頭の景気後退で取得もさらに困難になったので、当時27歳の私は妊娠5ヶ月の妻と1991年11月に帰国、3年11カ月の海外在住は幕を閉じる。でも不思議と喪失感は無く充実感があった。

1992年1月4日、兼ねて誘われていた当社に入社する。当時から海外を得意としていた当社の中で、リテールとして姉妹都市交流やホームステイ、海外合唱イベントなど現地で得た経験を活かせる案件に携わり、あちこち飛び回っていた。また当時は電話帳のような分厚い旅行雑誌でグアム・サイパンツアーを売るなど、オペレーター時代は見えなかった販売現場を経験できたことでその後の仕事の幅が広がったように思う。

入社5年目、前任者の退職でリテールからホールセールに異動する。当時はまだ紙パンフレットをリテーラー店舗に大量に陳列してもらい販売するのが主流。パッケージツアーの造成で企画から仕入れ、パンフレット作り、店舗への営業まで一貫して携わり、その売れ行きの良し悪しに一喜一憂していたことが懐かしい。当社はカナダに強みを持っていたので、添乗のほか商談会参加や現地との打ち合わせで計100回以上はカナダに渡航し、友人からは「オーストラリアを捨ててカナダに走った」と冗談交じりに揶揄されたのはご愛敬。

2000年代には大手によるメディア販売が伸長してきたのはご存じの通り。さらに2001年の9.11と2003年のSARSでパッケージマーケットが一番打撃を受け、当社もパッケージ造成販売から航空券流通に軸足を移す。折しもセントレアの2005年開港で欧州中東路線の新規就航が増えたので、それまでのカナダ一本足からマーケットの大きい欧州へと拡大し、取引エアラインも増え、GDSの使い方から航空券流通の基礎編・応用編まで様々なことを叩き込まれる。でも残念ながらゴルフだけは縁がなく、食わず嫌いのまま今に至るのはなぜだろう。

これでアウトバウンドは企画~ランド~エア~造成~営業~添乗と一気通貫コンプリート、しいて言えば業務渡航には携わったことがないが、まあ良しとしよう。

そんなこんなの2009年6月1日付けで、当社の代表取締役を創業者から引き継ぐ。親族でもないイチ社員が、1種・IATA・独立系の会社を株式も含めて引き継ぐなんてこと、入社したころにはもちろん想像もしていなかった。

思っていたより文字数も多くなったので、今回はここまで。
社長業のことは、次の機会にでも書こうと思う。

著者:山口寿史(株式会社チックトラベルセンター)

掲載日:2024年10月17日