Voice ハワイ雑感
日本人に一番人気のある海外のリゾート観光地はハワイと言って間違いないでしょう。
リピータ率は60%を超え、年間150万人の日本人がハワイに滞在します。
なぜ日本人にハワイが好まれるのかと考えてみると、気候風土、豊富な観光資源、治安の良さ等の条件はありますが、多くの日系人が住むハワイは日本と文化が近似している事が大きく影響しているのではないでしょうか?

●ハワイの日系移民
ハワイ州の人口は145万人で、そのうちの約36万人(総人口の25%)が日本をルーツとする日系人で占められています。
日本からのハワイの移民は1868年(明治元年)に始まり、1885年に官約移民が開始され本格化しました。
ハワイが1898年にアメリカ合衆国に併合(準州扱い)された後は、米国の法律が順次適用されるようになります。
従来の移民は半ば奴隷と同様に扱われていましたが、1900年(明治33年)から1907年(同40年)に「自由移民」の時代となり、この間に約7万1千人が日本から移住しました。
その後、増え続ける日本人の移民を制限するため、1908年から1924年(大正13年)までは、在住日系人の「呼寄せ移民」時代となり、この間に更に約6万1千人がハワイに来島しました。
1920年(大正9年)には、ハワイ準州の人口の中で日系人の占める割合が全体の42.7%に達しました。
1924年の排日移民法により米国への日本人移民が禁止されるまでに、約22万人の日本人がハワイに渡航し今日に至るハワイ日系人社会の礎を築きました。

●現在のハワイ日系人の社会的地位
高い教育達成度と勤勉性を持つハワイの日系人は、現代のハワイで幅広いアッパーミドル層(中流階級の上位層)を構成しています。
政府の行政機関幹部、企業の管理職、政治家、大学教授、医者、弁護士、会計士等の職業を持つ人の割合が高くハワイ州の運営を担っていく人材を多数輩出しています。

●真珠湾急襲による日系社会の混乱
1941年(昭和16年)12月8日、日本軍のハワイ真珠湾急襲によりアメリカと日本は戦闘状態となり、太平洋戦争に突入しました。
結果的に宣戦布告なしの攻撃ということから、米国民の対日感情は最悪の状態になります。特にハワイでは、戦艦などの艦艇が撃沈されて、多数の死傷者がでたため、日系人に対する警戒心から、日系社会の千人近い指導的有力者を即逮捕、拘禁します。

●日系二世の陸軍大隊の編成
混乱していた日系社会は、逮捕された有力者のうち、日系一世を中心とした約700名が米国本土に移送されたことから、日系二世が指導的役割を果たすことになります。
日系人は日米開戦となった以上は、日米どちらかを選ばなければならなくなったわけです。
日系二世は生まれも育ちもハワイであり、日系一世のように日本に執着するいわれもなく、生まれ育ったハワイに郷土愛が醸成されていたのです。
1942年6月に、在ハワイの日系二世の志願者の中から選抜された約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名されました。

●上級連隊に所属しない独立歩兵大隊
緊急に編成された第100大隊は、大隊長以下3人の幹部は白人でしたが、その他の士官と兵員は全て日系人で占められました。編成されたものの、上級組織の連隊はおろか、師団さえも引き取ろうとしなかったため、独立大隊とされました。
この部隊は後にアメリカ最強の陸軍部隊の一つに数えられ、ヨーロッパ戦線を転戦してドイツ軍から恐怖の部隊として恐れられることとなります。
1944年6月に、アメリカ本土からの新たな志願兵を加えて編成された日系2世による第442連隊がイタリア戦線に到着し、第100大隊は第442連隊戦闘団の第1大隊となりましたが、それまでの功績から第100歩兵大隊の名称は、そのまま継承されました。
当初は「ジャップ」とさげすまれ、上級指揮官から「必要ない」と断れ続けてきた日系部隊でしたが、アフリカ戦線、イタリア戦線でのドイツ軍との戦いを重ねていくうちに、日系部隊が目覚ましい戦果を挙げていることが連合軍中に知れ渡り、各方面の指揮官から日系部隊に対し増援要請が出るようになりました。
終戦後、第100歩兵大隊は大統領部隊感謝状を始めとする多くの表彰を受け、現代に至ってもアメリカ陸軍ベストユニットの一つとされていいます。
日系人初の連邦上院議員となったダニエルK.井上氏も、ハワイ大学在学中に志願して第100大隊に入隊し、数々の武勲をたて1947年に大尉で名誉除隊しました。
2012年12月に享年88歳で逝去した井上氏の生前の功績をたたえ、ホノルル空港は2017年4月17日にダニエルK.イノウエ国際空港に改名されました。

●日系二世の活躍が州昇格に寄与
1950年代後半になると、観光事業を始めとする経済発展が進み、ハワイ社会は準州から正式な州に昇格することを希望するようになってきます。
合衆国とはいうものの、州であれば準国家としてかなりの自治権が与えられ、独自の州法も制定できます。
しかし、50番目に州に昇格しても陸地、水域合わせても州の規模は43番目、人口数も最下位に近い小州(現在は40位)にすぎません。
特に、州の中ではアメリカ南部を代表するようなテキサス州が、ハワイには日系人の比率が極めて高いことを理由に、ハワイの州昇格に反対していました。
しかし、ヨーロッパ戦線でテキサス師団旗下の部隊がドイツ軍に囲まれて全滅か降参かの瀬戸際を日系二世部隊が多くの死傷者を出しながら救出したことがあったことが知らされると、反対から賛成に回り、1959年に州昇格が認められました。

●同時多発テロ事件
 2001年9月11日、アメリカ東部でイスラム原理主義を唱えるアルカイーダによりハイジャックされた4機のジエット機による自爆テロが実行されました。
午前8時46分に乗客を乗せたままのアメリカン航空機11便が世界貿易センター(TWC)のノースタワーに激突、さらに午前9時03分にユナイッテド航空機175便が同サウスタワーに激突し、午前9時36分にはアメリカン航空77便が国防総省の西壁に激突、最後に午前10時03分、ユナイッテド航空93便がペンシルベニア州ジャクソンビルの原野に墜落しました。
最後の93便の墜落は、乗員以外の被害者を出さないために乗客たちがハイジャック犯たちに対して蜂起した結果だとされています。
当日だけで約3000人が亡くなる悲惨な事件でした。
米国連邦航空局は飛行中の全ての民間航空機に直近の飛行場に緊急着陸を指示しました。また、アメリカの主要空港にはイスラム過激派により時限爆弾が仕掛けられているとのうわさが流れ、ホノルル空港も厳戒態勢下に入り、フル装備したアメリカ陸軍の兵士が軍用犬を連れて厳重警備にあたっていました。
アメリカ太平洋艦隊の司令部はパールハーバーにあり、戒厳令下2機編隊の戦闘機が轟音を響かせ、絶えずオアフ島上空を旋回していました。

●異常事態の中のホノルル
私はナインイレブン(9.11事件)の前後の数日間、出張でホノルルに滞在していました。
ニューヨークで起きた悲劇がハワイに伝わった後、普段は観光客で賑やかなカラカウア通りは道行く人もまばらで、各商店の入り口には既に半旗が掲げられていました。
日本人観光客には、なるべく外出を控えるようにとのメッセージがTVから何度も流れていました。
普段は陽気なハワイの人も皆、無口で事件の大きさに動揺し、事の深刻さに打ちのめされていました。
アメリカ国歌のThe Star‐Spangle Banner(星条旗)や 第二の国歌といわれるGod Bless Amerika(神はアメリカを守る)の音楽が頻繁に流れていました。
テレビではTWCに旅客機が激突するシーンを何度も繰り返し放映し、アナウンサーは「これは神風アタックである、第二のパールハーバーと同じである」と感情的に煽り立てるように話します。
日本人の我々としてはあまり触れてもらいたくない比喩ですが、センセーショナルに煽っていることは間違いないという印象が残りました。                

●日系100大隊OBの行進
このように緊迫した状況の中、9月3日?<9月11日の後では>だったと思いますが、ヒルトンホテル、カリヤタワーのリニューアルオープン記念パーティーが、ヒルトンホテル国際会議場で開催されました。
パーティーの開催趣旨はナインイレブンの追悼式に代わり、義援金の募集も併せて行われました。
パーティーとはいうものの、いつもの華やかな雰囲気は全くありません。
ハワイ州知事をはじめとする著名人の追悼のスピーチの後に、マーチングバンドの演奏に乗って最初に入場してきたのは、なんとあの日系二世部隊第100歩兵大隊退役軍人会(100th Battalion veterans Club)のメンバーだったのです。
第二次世界大戦当時のアメリカ陸軍の制服を着用し、ダニエルK.井上上院議員を先頭に約10名の隊員が歩調を合わせ、堂々と厳粛に入場してきました。
当時のメンバーの平均年齢は70歳以上の高齢だと思いますが、隊旗を高く掲げ胸を張っての入場行進でした。
この意表を突く素晴らしい演出に館内に詰めかけた参加者から割れるような拍手と喝采が沸き起こり、しばしの間、鳴りやみませんでした。
テロ発生下の異常な状況の中で、このレセプションに参加していた少数の日本人にとって、日系二世部隊の堂々の行進は強い勇気と胸を打つ感動を与えてくれるものでした。それだけではなく、ナインイレブンが第二のパールハーバーではなく、合衆国国民は人種を超えて、この悲劇に立ち向かおうという日系人の決意の呼び掛けだったと思います。
そして私が経験した海外旅行の中でも一番印象に残る旅行となりました。

著者:島田 恭輔(パシフィックリゾート株式会社)

掲載日:2024年03月18日