Voice 所かわれば 品かわる ~タイ国の不思議な洪水~
  「あなたは肝心の時にいないのよねえ~!」と妻に嫌味を言われながらもようやくつながった電話で妻と娘の無事を確認し、ホッと安堵の息を吐いたのは2011年3月11日の東日本大震災の日も夕暮近くだった。私はタイ国に赴任して3年が経とうとしていたが、タイというのは地震もなければ台風も来ない、たま~にクーデターがあるけれど天災はない国というイメージが私の中で固まりつつあった。だが、それを一気に覆されたのがその半年後、2011年の10月にタイを襲った洪水だった。

最初の写真だが、これは有明海の海苔養殖場の風景ではない。れっきとしたタイの工業団地内が冠水し、ホンダの工場が半水没しているのである(写真:ロイター)。天災時は流言飛語がつきものだが、この時はタイ人の間で「ホンダは水没した車を洗ってまた売るらしい。」と根拠のない噂が飛び交い、これを否定すべくホンダは水没した2,000台の新車をマスコミ立会いの下、公開処分したのだ。せっかくの新車をスクラップにしたホンダの従業員の悔しさはいかばかりであったろうか。

それほどの被害が出た洪水にしては一見のどかにも見えてしまう写真だが、その次を見てもらえれば事の重大さがわかって頂けるかと思う。これは別の工業団地内のソニーの工場で、1階は水没し2階だけ水上に顔を出している(写真:時事通信)。このような被害に遭ったのはホンダやソニーだけではなく、他の会社の工場も同じ状況に陥ったわけで、こうなると工場設備は全滅である。何か助けられる物はないかと考えた結果、金型を救え!となったらしい。自動車も電機も或いはそれ以外でもプラスチック部品を成形するのに絶対必要なのが金型だが、水に浸かった金型は引き上げて空気に触れると、間もなくサビが始まり二度と使えなくなる。

この状況下で大活躍したのがボートと潜水夫。潜水夫は水中にもぐって成形機から金型を外し、それをボートで水中に吊り下げて岸辺まで運んで、そこに待機したトラックの荷台の大きな水槽へ金型を沈める。トラックは金型整備場へ急行、そこで金型を水槽から出すや一気に洗浄し乾燥させるからサビる間もなく金型復元は終了するのだ。いわば金型のレスキューというわけだ。

話が横へそれるが、この時の潜水夫の多くはタイ人でなく海外から来たボランティアだったとも言われている。ボランティアは、皆が何か特技を持っていて、例えば大工、電気工、特殊車両運転士らが洪水と聞いて海外からタイに飛んで来たのだ。彼らはボランティア登録して特技を自己申告し、それを活かした仕事を登録官から任命される。2011年はそのボランティアたちの中にオーストラリア人の潜水夫がいた。登録官はそれを聞いて大喜びし「お前はオーストラリアから来たのか、じゃワニを捕まえてくれ。」と言われた潜水夫は腰を抜かしたそうだ。「俺はワニを捕まえに来たんじゃない。」と必死で抵抗し、金型レスキュー隊に回ったらしい。

なぜこんな漫画みたいな話になるのか?タイにはかなりの数のワニ園があり、ワニのショーやワニへの餌やりが観光客に人気で、大きくなったワニは革製品にし即売するというエグい商売をしている。大きなワニ園だと『万』匹の単位でワニを飼っており、管理しきれないから日本だったら許されない数である。ここに洪水が来るとどうなるかと言うと、数十匹くらい柵を越え脱走しても把握できないのだ。タイのTVで「洪水後はワニに注意!」という政府系CMが流れるのを私自身何度も見た。さすが不思議の国タイランド!実際、私の知人はペットの犬が後ろ足をワニに食いちぎられたと言う。『ワニ王国』のオーストラリア人もビックリのタイ王国である。

閑話休題。タイで我々日本人駐在員に文字通り冷水を浴びせたこの洪水。タイ北部から中部に至る7つの主要工業団地が1.5~3mの深さで水没、838工場が床上浸水、そのうち450工場は日系企業で、各社が復旧に最短でも半年を要する被害を受けた。民家の被害も甚大で、死者815人、被災者は230万人(諸説あり)とも言われた。

だが、これが何とも不思議な洪水なのだ。タイの雨季は6月~10月であり、タイ北部で最初に氾濫が発生したのは7月、中部で洪水被害が始まったのは10月で、完全に水が引いたのは12月末である。上流の洪水がTVで報道され、これはヤバイと身構える我々下流の方へ洪水は(待っているわけではないが)一向に来ないのだ。その理由は、ひたすら平野が続き、土地に高低差がないタイの地形的特徴にある。

タイ人が言うには、タイの平野では1kmで10cmの勾配しかない、即ち100m行っても1cmしか低くならないので水は勢いよく流れない。この年の洪水の主役・チャオプラヤー川はタイ北部4つの水源の合流地点から始まり、最後はバンコクの南隣サムトプラカーン県パークナムの河口で海(タイ湾)に注ぐ全長372kmの大河だが、上流の合流地点の海抜は僅か25m!上流に降った雨が河口に辿りつくまでびっくりするほど時間差があるのだ。(チャオプラヤー川は北から5つのダムがあり、そこに雨水を貯め過ぎた放水管理上の失策も時間差に影響し、かつ無計画な放水によって洪水を悪化させたと識者の指摘もあるが、紙面も足りぬためここでは割愛する。)

私は当時、TOPPANとタイのサイアムセメントの合弁会社・サイアムトッパンの社長で、会社の所在地は上記パークナムの河口から南東へ約10kmのバンプー工業団地。タイ湾は目と鼻の先だった。この年タイは50年ぶりの大雨を記録し、10月4日アユタヤ北方のサハ・ラッタナナコン工業団地で周囲の堤防を越えて浸水したのを皮切りに10月18日にバンコク北方のバンカディ工業団地の浸水に至るまですべてチャオプラヤー川の東側に位置する、7つの主要工業団地が次々と水没。その度に、社長室で広げたタイの地図に『X』マークを付けていた時の心鏡は、迫りくる敵に一つまた一つと、城を落とされて行く敗軍の将のようだった。徐々に『X』マークが南下して来るあの嫌~な感じは日本の土石流の怖さとはまた違い、じわじわと真綿で首を絞められるような、蛇の生殺しみたいな気分だったことを思い出す。

だが、その私の沈んだ気分を晴らしてくれたのが当時のタイ人従業員たちの明るさだった。会社で毎日議論しているのは、得意先の工場は大丈夫か?サプライヤーの工場はどうか?洪水がどこまで来たら、我々は避難の態勢に入るか?など重苦しい話題ばかりである。しかし、その会議の席上でタイ人は笑顔でジョークを飛ばすし、よく聞けば、彼らの中の何人かは既に自宅が浸水被害に遭っているにもかかわらず、毎日出社していたのだ!日本では考えられないことだし、そんなにタイ人が会社思いだとは知らなかった私は、タイ人の総務部長に「会社の洪水対策だけでなく従業員自宅の洪水補償策が必要だ。」と具体的補償策の提案を求めた。

その総務部長から出た案は「自宅が床上浸水以上の水害に遭った従業員に見舞金を支払う。要提出書類は、自宅登記簿謄本、浸水した写真、そして自宅から会社までの道順詳細。」だったが、私が「自宅道順の詳細なんて必要ないだろう?」と聞くと彼は「必要です。浸水した写真は他人の家でも撮れる。」と、ドヤ顔で答えた。従業員から被災申請が出たら、総務部員は実際自宅まで確かめに行くと言うのだ。本当にそんなことをするのか?と驚いたが、結果的に全従業員約500名(当時)中の15名しか自宅が洪水に遭わなかったので総務部員は結局そのすべてを見に行った。

後日、従業員からの自宅浸水被災届が15名分上がって来てまた驚いた。どれもが被災写真付きだが、例えば、1階が半水没した自宅をバックにし、ボートに乗った女性社員が家族4人でカメラに向かってVサイン!?かと思えば、立派なリビングダイニングテーブル以外は水没したリビングで、そのテーブルに座り、悠々と釣り糸を垂れる男性社員!とか、襲って来た洪水を笑い飛ばすような、日本ではあり得ないもの。やはり不思議の国タイランド。タイ人の明るさにはブッ飛ぶしかない。

その間にも、洪水はいよいよバンコクとその北隣パトゥンタニ県との県境まで南下して来たが、我々の工場が浸水した場合の避難シミュレーションは既にできていたし、最悪の事態に備えタイ東部チョンブリ県にサテライトオフィスも設けてあった。そして水は遂にバンコク市内へ流れ込む。バンコク市内を襲ったあとは南東へ流れると言われており、その先にはサムトプラカーン県にある我々の工場があった。

その流れが突然かわったのは、日本のトヨタの社長がノーアポイントでタイの女性首相インラック(当時)に面会に来た翌日だった。当時タイにトヨタの工場は3つあったが最も歴史ある工場が我々と同じサムトプラカーン県にあり、我々より少し北のバンコク寄りに位置していた。(ここから先は、タイのマスコミでも記事になっておらず当時のバンコク日本人社会の噂話に過ぎないため、私も記述に責任は持てない。あくまで『噂』であるが) トヨタの社長はインラック首相に「もし当社の工場がホンダのように水没したらトヨタはタイから撤退する。」と言って帰国した。そうすると、あーら不思議、それまでチャオプラヤー川の東側だけに溢れていた水が翌朝から西側に流れ始め、バンコクから西隣のサムトサコーン県の方へ向かったのだ。

まさに寝耳に水だったのが西方のサムトサコーン側で、ほどなく民家や工業団地の浸水被害が始まった。逆に南東の我々サムトプラカーン側は狐につままれたようにポカーン?であった。急に水が来なくなり嬉しいやら拍子抜けするやら。それまでインラック首相は「洪水の行方はアンコントローラブル。低い方へ流れるだけ。」と公式発言していたが、実はコントロール『できない』のではなくて『できるけどしない』だったらしい。

考えてみれば、バンコクは今や完全な車社会だが昔は水運の都。運河が縦横に走る船社会だったわけで、その幾多ある水門のどちら側を閉め、どちら側を開けるかでバンコクに流れ込んだ水を東西どちらに流すかコントロールできたのだ。しかし、それを政権主導で行うと、水を流されたエリアから猛反発を食らうので『何もしない。自然の流れに任す。』無策の策作戦に出ていたのであろう。だが、その気になれば、あそこまで水をコントロールできるとは、バンコク市内でも長老議員だとか、ごく一部の人以外は知らなかったのではなかろうか?その証拠に私の周りのタイ人も古株の日本人駐在員も一様にびっくりしていたくらいだから。何にしても、我々の工場はトヨタのお陰で(?? )助かった。まあ、あくまで『噂』ではあるが・・・

なんだか最後まで不思議なタイの洪水、所かわれば品かわる。オンラインではなくリアルで訪れてこそ感じ得ることである。そうだ、やはり今こそ旅に出よう!!
 

著者:島宗 真太郎(株式会社トッパントラベルサービス)

掲載日:2024年03月04日