Voice 旅で人に出会い、人生を変えた自分
私は幼い時から蒸気機関車やバスなど乗り物に興味を持っていた。
小学校高学年時から山歩きが好きになり、中学高校大学と日本の山々を歩き雪化粧した冬山や春の美しい野の花などを体験してきた。
振り返ると中学生の英語の教科書に1953年エリザベス女王の戴冠式を記念し、英国人登山家ヒラリー卿とネパール人シェルパのテンジンノルゲー氏が世界最高峰のエベレスト登頂に成功した時のリアルなイラストで登頂時の二人の様子が載っていた。その精悍なシェル パテンジンに心を惹かれその勇敢なテンジン氏に会いたい思いが募って来た。
その思いは高校大学時へと引き続き、テンジン氏のその後の所在を駐日英国大使館で調べるとテンジン氏の出身地北インド(シッキム地方)のダージリンで
英国から1953年に登頂記念として贈られたマウントインストチュウト(登山学校)理事長として健在であることが分かった。
1964年(海外渡航自由化の年)の9月末にアルバイト貯めた資金で横浜からバンコックまで貨客船(関西汽船)に乗り14日間の航海でバンコックに着き1週間滞在し、その後バンコックから空路コルカタ(当時はカルカッタ)でシッキム地方への特別許可書を警察に申請その間1週間ほどをこの街で過ごしていた。
当時のカルカッタ市内は貧困とライ病患者が多く正にインドのカースト制に外れたアウトカースト(不可触民族)の街であった。
許可書を待つ間毎日リックサックを背負い街を歩く状態であった.
ある日一人の日本人に「君は日本の学生さん?」と声を掛けられ「何処に行くのか?」と聞かれテンジン氏に会いにダージュリンまで行くと答えると今度は「交通機関は何か?」と問われ列車で行くと答えると「君はインドの列車の状況を知らない、とても外国人が乗れるものではない」と強く言われ、新たに宿泊所を紹介されカルカッタ大学寮に数日お世話になった.
その後許可書が出て出発する日に再び日本人の方から連絡があり「ターミナルまで送ってあげる」と言われ大学寮まで迎えに来てくれた。
その後、車に乗って駅まで行くものと思っていたが、途中で航空会社の前に車を止め「ここで待つよう」にと言われ暫くすると航空券を持って戻って来られた。そしてこの航空券を使って行くようにと強く言われその親切に甘える結果となった。
その人はジェトロカルカッタ所長河村邦男さんと言われる方であった。
1ヵ月半ほどのシッキムへの旅で目的のテンジンノルゲー氏にも会え再びカルカッタに帰り、今夜の便でバンコックに戻りその後帰国する旨を河村さんに伝えると彼は「航空便は出発が早朝なので真夜中にターミナルまで送るから私の家で待つように」と河村さんのお宅で出発を待つことにした。
直前河村さんにお借りした航空券代を帰国後お返ししたいと東京のご自宅の住所をお聞きしたが彼は私に「航空券はあなたに頼まれたのではなく私が勝手にやったこと、もし返すのであればこれからの日本は経済的にも文化的にも大きく飛躍すると思う、その時に日本の若い人達が海外を広く見るために力を尽くし国家の繁栄を願ってほしい」と言われ帰国路についた。
1965年大学卒業時私は23歳であった。               
鹿児島で衣料品の商売をしていた父の下へ帰り父はその仕事を継ぐものと期待をしていたと思う。しかしカルカッタで出会った河村さんの言われたことが耳から離れず、父の心配を押し切り若い人たちの国際交流の仕事をしたいと父を説得した。1865年薩摩藩が鎖国を破り欧州使節団を最年少12歳から27歳までの17名をロンドンに派遣し後の明治維新に彼らの力が大いに功績を残す結果となった歴史があること思い出し、戦後の経済や文化を向上させるためには薩摩藩が行った欧州視察を現代の若者達を再び欧州へ連れて行きたいと考えた。この企画実施にあたっては地域の行政や経済界、大学の先生方に相談に致し「ヨーロッパ文化研究会」を立ち上げた。
当時の航空運賃はエコノミーでも高額なもので安い運賃の為にはチャーターするしかなく、25歳の時にオランダ航空東京支社を訪ね137名乗りのDC8機をチャーター契約した。1966年8月6日に羽田国際空港からアムステルダムへヨーロッパへの1ヵ月間の旅の企画をし1865年の欧州視察と同じく
最年少の12歳(小6年)を含め20代までの若者たちで8割を占め団長に鹿児島大学教授にお願いし、4コースに分かれ旅をしたことで学生時代に1964年に出会った河村邦男さんとの約束を果たすことが出来、現在の会社に至り創業58年となった。
旅することは多くの人たちとの出会いがあり、その出会いによって人生の道が
開け知恵と工夫をすることにより、より良い自己の形成になると信じてやまない。
鹿児島から出発した会社も東京に本社を移し51年、創業時の1966年代は日本経済も発展途上期にあり、現在のシニア層とは違い当時の親は働き続け将来のある子供たちへ海外を見せその体験が子供たちへの向上心へ繋がることを願い親は厳しい経済状況の中での出費をしたことと思う。
創業から27年間は若者を中心した企画で主に欧州の旅を大学生協とユースホステル協会などの協力を得て旅行商品を造成してきたが、この若者への企画へ大手旅行業界も参入してきたことを機に中小規模企業で対抗するには厳しいと判断し30年前にこれからは日本の経済状況も良くなり、これまでに働きずくめであった親たちが生活にも余裕が持てることを念頭にシニアへの企画商品を造成することに転換し現在に至った。
学生時代に出会った一人の方からの影響で自分の人生が確固たるものになったことを今は感謝しており、旅の力は大きいものです。

著者:古木 康太郎(株式会社グローバルユースビューロー)

掲載日:2023年12月13日