トラベル懇話会 Travel Management Club
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例会抄録
2009年 新春講演会
 
旅、そこで見るもの、考えること
 
林望氏
作家
 
トラベル懇話会の09年新春講演会には、リンボウ先生の名で親しまれる作家の林望氏が登壇。英国文化通として有名だが、その博識は専門分野の日本書誌学や国文学の枠を超えて、旅や料理、能楽から古典文学などにも及ぶ。最近は国内の地域活性化にも取り組む林氏が、旅行を通じた地域活性化のためのアイデアを提案した。
 
目垢の付いていないものを見る
萩原朔太郎は、彼の詩の中で「旅行の実の楽しさは、旅の中にもなく後にもない。ただ旅に出ようと思った時の海風のように吹いてくる気持ちにある」と述べていますが、実に共感します。誰しも通勤電車を待つうちに、反対方向の特急に乗って知らない場所へ行ってみたいと考えたりすることがあるでしょう。そんな時の胸の高鳴りを、たしかに温かな海風のように感じることがあります。また、温泉にでも行こうかなと考えた時の楽しみな気持が、実際に温泉についてみると、しぼんでしまっていたりすることもよくあることです。
もちろん、それだからといって旅が不要だとか不毛だとか考えるのは間違っています。日本人は、本当の旅の楽しさを見つめ直すべきだと思うのです。バブル時代には、超高級旅館の1泊7万〜8万円する部屋に泊まり、「お金を使った」という満足感しか残らないような体験を旅と考えた日本人も数多くいたようです。しかし、本当の旅とは、金銭ではなく、もっと形而上的な精神的なものであるはずです。
その点、イギリス人は本物の旅好きで、旅のスタイルが日本とは大きく違います。イギリスの旅行者の愛読書にエリザベス・ガンドリー女史の著「Staying Off The Beaten Track」という本があります。グラビアの一切ない
はやし・のぞむ ●1949年生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授などを歴任。専門は日本書誌学・国文学。主な著書に『イギリスはおいしい』(平凡社)、『旬采膳語』(岩波新書)や、『リンボウ先生』シリーズのエッセイなど。
文章だけの本ですが、ロングセラーでありベストセラーです。この本は、直訳すれば「田舎道の奥の宿に泊まる」とでもいうような題名です。「off the beaten track」とは「踏み固められた道を外れて」という意味です。イギリスには、「こんなところに?」というような辺鄙な場所にもおびただしい数の宿があって、そういった宿を訪ねて旅をする旅行者がたくさんいます。踏み固められた道を行けば、皆が同じものを見聞きすることになります。いわば、骨董の世界でいうところの“目垢の付いたもの”しか見られないわけです。しかし、非日常に心を遊ばせて楽しむ旅の本質から考えれば、目垢の付いた絵葉書のような景色だけを見ても意味がないのです。
 
廃校舎や古い農家の活用を
イギリスには、ナショナルトラストから分派したランドマークトラストという組織があります。ナショナルトラストは、貴族の館や古城、史跡、自然の地、産業遺産などを対象とし、歴史の証人たりうる不動産を後世へ伝えるために保護する制度で、保護対象となるには、後世へ伝えるべき一定の価値が認められた不動産でなければなりません。
これに対してランドマークトラストは、たとえば廃線となった鉄道の、何でもない駅舎なども保護の対象としています。駅舎として特に歴史的な価値がなくても、駅舎がなくなってしまえば、その鉄道や駅舎を使った数多くの人々の、人生に刻まれた歴史の記憶がまったくなくなってしまいます。それはしのびないというのがランドマークトラストの考え方です。そこでナショナルトラストで保護するほどではないが、後世に残したいという物件をランドマークトラストが買い取り、徹底したレストレーションを加え、宿泊施設などとして活用しています。
戦争で使用されたトーチカや廃線の駅舎、貴族の館に併設された門番小屋、水車小屋などがランドマークトラストによって保護され、キッチン設備付きの宿泊施設に生まれ変わり、ロンドンの高級ホテルで1泊する程度の宿泊料金で1週間ほど滞在できるようになっています。収益は、次の物件の購入費や修復工事費に当てられます。現在、ランドマークトラストの宿はイギリス全土に約70軒、年間約1万人泊のキャパシティーがあり、稼働率は1年を通じて100%ということです。
こうしたやり方は、日本も参考にできる賢いやり方です。疲弊した日本の農村には、古い農家や廃校などが数多く立ち腐れています。ランドマークトラストのような発想で徹底したレストレーションを加えて、リーズナブルな宿泊施設に生まれ変わらせれば、旅行者は歴史を学びつつ休暇を過ごせるわけです。このままでは日本の観光が行き詰ってしまうという危機意識を持って、旅行業界も旅行者をリードし、「こんな休日の過ごし方もあります」と提案していく。そこにこそ21世紀の旅行業界の視点があるのではないでしょうか。
 
旅行者の数だけテーマがある
高齢化社会はツーリズムにとっての好機到来です。高齢者とはいえ、退職金があり、家もあり、老後の時間をどう過ごそうかと楽しみにしている人々がいる。彼らは旅に出たいという“海風の気持ち”を持っています。しかし、単なる観光でない“何か”を見たい。こうした思いに旅行業界が応えていないのが現状ではないでしょうか。
イギリスでの経験をお話しましょう。北部イングランドのヨークシャーを旅した際に、エンブルトンという田舎町で、石造りの円錐形をした奇妙な建造物を見かけました。「何だろう、これは」と思って地元の人に尋ねると、ハト小屋だという思いがけない答えが返ってきました。このあたりではハト肉を取るために、こうした石小屋で食用ハトを飼うのが当たり前になっているのだそうです。
またある時は北ヨークシャーで、プロミネントヒルという富士山のような姿のいい山を見つけました。よく聞いてみると、ここはもともと丸い丘だったのが、中腹で続けられた銅鉱石の採掘により様相が変わってしまい、やせ細って富士山のような形になったそうです。初めは「イギリスにもマウントフジがあった」などと無邪気に喜んでいたのですが、実は産業国家としてのイギリスの負の遺産を目の当たりにしていたわけです。
1人ひとりの目と心で新しく何かを発見する。そのことをテーマにした旅こそが、これからの時代の旅であるべきではないでしょうか。